
そんなに離れていない場所で確かな破裂音を聞いた。
ハッと見上げた夜空がざわめき、バタバタと響く羽音と共にギャッギャッと騒ぐ鳥たちの叫びを聞く。
それは不吉な気配に怯えたカラスたちの悲鳴だったのか。
「なに…?!」
さっきのがなんの音だったのか。
ソレを生まれて初めて聞く日向には判別出来ようはずもない。
ヒラヒラと頭上から舞い落ちる黒い羽が頬にソッと触れて落ちていく。
無意識に黒い羽を手で払った。
ふらふらと吸い寄せられるようにそちらへ足を向けかけて、ヒヤリとした感覚が背筋に走る。
次の瞬間にはあの音と真逆の方向へ日向は全速力で駆けだしていた。
いちいち道なんぞ選んではいられない。
そんなものはとっくに見失ってしまった。
森の中をひたすらに駆け降りる。
下り坂になっているから、もしかしたら、ついさっき出てきたばかりの“学校”は丘の上にあるものだったのかもしれない。
傾斜に助けられグングン加速する。
周囲を置き去りに進み続ける。
アレは。
きっと。
アレは。
頭の中で自分の悲鳴が大音響で響く。
アレは、きっと、銃声だ。
見開かれた両目が正面から吹き付ける突風に乾いてヒリヒリ痛む。
生理的な涙がパッと散った。
森の中で、唐突に響いた銃声を、すぐには認められるはずもない。
特にこの、状況下では。
誰かが、誰かを、撃った音。
そうとしか思えなかった己の思考そのものから逃げ出すように駆ける。
小枝が時折頬を叩き、怯んだ膝から地面へ転げた。
二回ほどうっかり前転してしまった勢いを殺さずに立ち上がり無理矢理両足を忙しく動かした。
肩から抜けかけた合宿用の鞄とデイバックをそれぞれ、ラグビーボールのようにして抱きしめる。
体中、泥と葉っぱにまみれて小さな擦り傷が沢山ついた。
どこへ向かっているのかなんて、わからない。
崖とも呼べない、斜面に突如出来た小さな斜面の切れ目と土の段差。
ほんの1メートルほどの高低差があるそこもひと思いに走り幅跳び同様、飛び降りた。
踵からの着地は雑草を大地から毟り取りビリビリと脳天まで突き上げる衝撃に思わず2度目の転倒をしそうになった。
「くぁ…!!ん…!ぬっ!!」
根性だけで、どうにか耐え抜く。
ぷはっと大きく息を吐き、ダッ、ダッ、と大きく踏み出した。
目の前の光景が、開けてきた。
今駆けてきた森から出られるらしい。
安堵の息が、出そうになった。
ほんの些細な気の緩みがあったのは認める。
靴の、下。
草地の中に混じって何か固い感触を踏んだような気がした。
え?と思う、暇さえなかった。
「ぁガ!?」
強烈な衝撃と共に足を、何かに巨大なものに噛まれ、日向は、駆ける勢いのまま右足を支点に地へ派手に顔面から叩きつけられた。
デイバックと合宿鞄がまとめてポーンと宙を舞い、離れた藪へと落ちていく。
鉄の異音が耳に届いた気がした。
咄嗟に顔を庇おうと飛び出した両手の皮も擦れて剥けて、焼けるような熱さが広がった。
頬も、おそらく酷い擦過傷を負ったはずだ。
「アァアッ?!」
それにまさる激痛が間を置かず右足から脳天まで突き上げて、夜の森の中で悲鳴が弾けた。
凄絶な、声だった。
「…ぁ!……ぅァ、ッ!!」
息が詰まる。
両手の熱さも忘れて俯せにギリギリ奥歯を食いしばって飛びそうになる意識を懸命に掻き集めた。
もがこうとするたびにズグリズグリと痛みを伝えてくる右足はまるでそこだけがいきなり爆発してしまったみたいに日向の意思に逆らって動かず、僅かに力を込めればジャリリと鉄の重い音をさせる。
音と同じくらい足も事実、重かった。
己の身に何が起こったのか。
わからなかった。
しばらく動く事も出来なかった。
「ぃ、ぎ…!ヒッ」
ゾクゾクする疼痛が徐々に焼け付く熱へと変わっていき、苦痛に唾液が口の端から落ちた。
ぜぇぜぇ肩で必死に息をして、右足を確認したくないと内心で叫ぶ己の弱音を宥め宥め、体を、痺れる感覚の中ひっくり返す。
仰向けになるだけ。
そんな日常の仕草がこんなに大変だと思った事はいままでにただの一度も無かった。
「はぁ!は…!」
胸で息をする。
腕で目を覆う。
喉が詰まってグズグズと溢れ出す涙を拭う事も忘れてしまった。
両肘を背中の下の支えにして、無理をしてズルズル上体を起こす。
指を一本、動かすだけで体中からドッと冷や汗が吹きだすほどの寒気を覚える痛みだった。
左足は、擦り傷だらけだったがまぁそれは、いわばたいした事は無さそうな傷だった。
右足は、
「なんだ、よ、コレ?」
鉄で出来た、サメの歯の骨格標本に食われていた。
それ以外に日向は今見ているものを表現する言葉を知らない。
サメの歯と日向が表現したのもあながち間違いというわけではなかった。
ずらりと鉄の歯を生やした半円が二つ、挟み込む形でバネの力を利用し剥き出しの日向の足に喰らいついている。
スネの肉へガツリと食い込んだ無数の、ボロボロの鉄の錆びついた牙。
心臓の辺りがヒヤリと冷えて、くらくらと貧血を起こしそうな衝撃だった。
自分の足が、得体のしれないモノに食われている。
「うぁ…ぁ…、」
じくじくと溢れていく血。
ギリギリ食い込む鉄の感触。
それはトラバサミという狩猟用の罠だった。
現代では法律により使用が禁止されているが未だ違法と知りつつも使用するものはチラホラいる。
通りかかった獲物の足を鉄の歯でガッチリと挟み込み、食いついてその場へ捕える罠だ。
強力な物であれば大人の足を粉砕骨折させる程度の力はある。
ハッと顔を上げた先には人家が見えた。
斜面を駆け下りるうち、いつの間にか人の家があるところまで来てしまっていたらしい。
森が開けていたのもそのためだ。
とは言っても、ここは、今はこのゲームの為に故意的に無人にされた島である。
助けを呼ぶ為叫んだって無駄だろう。
その傍には鶏小屋のような物が見え、物音に驚いたのかかすかに鳥たちのコッコッという鳴き交わす声がかすかに聞こえる。
あの鶏を飼っていた家主が、もしかしたら、野犬かキツネあたりに鶏が狙われるのを嫌ってここへ罠を仕掛けたのかもしれなかった。
それにまんまと日向がかかってしまったというわけだ。
「は…っ、ぁ!」
くそ!!と叫びたい気持ちが激痛で喉の奥へと引っ込んでいく。
「ぅ、う、ぐ…ぅう!!」
衝動に任せて、日向は両の手をその鉄の歯にかけて引きはがそうとしていた。
トラバサミから伸びる鎖は地面へ深々と突き刺さる杭へと伸びており、日向をその場へ文字通り縫い付けていた。
鋭い上下の歯へ手をかけて、無理矢理に押し開こうと努力する。
けれど罠は残酷なまでに日向を放そうとしない。
鋭利な鉄の断面に指をかけていたせいだろう。
力を込めていた手に痛みが溜まる。
「ふはっ!ァッ!!」
汗にびっしょりと濡れた手が滑り、微かに開きかけたトラバサミが再び足へガツリと食らいつく感覚が身を貫く。
「ぁああぁあっ!!アーッ!!」
のたうち回る以外になにも出来なかった。
苦痛が全身の筋肉を収縮させ、ビクンビクンと二度痙攣を引き起こしドッと派手に横倒しになる。
両手の指は、トラバサミにかけた部分が真っ赤になって擦れていた。
切った箇所からは当然血も出ている。
胸を上下させ、犬みたいな短い呼吸を何度も繰り返す内、熱いものがこめかみを滑っていくのに気付いた。
いつの間にか溢れだし、流れ出した涙だった。
「ぅう…、ぅー…」
堪え切れないしゃくり声が喉の奥から込み上げてきた。
痛い。痛いと泣いたって誰かが助けてくれるわけじゃないとわかっている。
わかってはいたが、我慢が出来なかった。
なんで、なんでこんな目に。と。
泣き声はだんだん大きくなった。
どうせ誰も見ていないのだから、泣いてしまえと思う甘えもあったのかもしれない。
暗い森。
誰もいないそんな場所で、足を罠に挟まれて一人ぼっち。
そんな状況下で、まだ16才の少年に耐えろと言う方がどだい無理な話だったのかもしれない。
このまま自分は、ここで終わるのだろうか?
そんな考えが、恐怖心を煽ってどんどん心細くなっていく。
ふと思い出すのは幼い頃に行った動物園。
まだ妹が産まれる前。
父と母に連れられて行ったあまり大きくはないその娯楽施設で、はしゃぎすぎてうっかり迷子になった時の事。
知っている人が誰もいないその中で見る、ライオンや猿、虎やペリカンは、なんだかとても大きくて怖い物に見えた。
一人ぼっちである事がとても心細く、もう二度と、母や父に会えないのだろうかとわんわんと声を上げて泣き喚いた。
あの頃の事が思い出される。
もう、二度と、母や父には会えない。
会えないかもしれないと、泣いたあの頃は、泣けばだれか大人が手を差し伸べてくれた。
あの時だって、泣く日向を心配したどこかの大人が迷子センターまで日向を連れてってくれたのだ。
両親には当然、独りで走り去った事をしこたま叱られ、それから、ギュッと優しく抱きしめられた。
幼い少年は、自分独りでなんでも出来るつもりであったけれど。
しかし本当は、たくさんの大人たちに見守られていたのだと今の今になってようやく気が付く。
そんな、幼い時分のような、泣き声が夜の森の中に静かに響いた。
もう、会えない。
それが今度こそ、幼さ故の妄想ではなく本当の現実であると知っていたが故の泣き声だったのかもしれない。
その声をビクリと急速に止める事になったのは背後の藪がガサリと大きく揺れた為だった。
ヌッと大きな影がすぐ後ろに立ちはだかり確実に、日向を見つけて視線を注いでくるのが全身でわかって、鳥肌が立つ。
ああ、ああ、と声にならない音が喉から零れて闇に溶けていった。
月明りが逆光となって、相手の顔はうまく判別出来やしない。
ただ、見慣れた背格好ではないのはわかった。
誰だかわからないものがすぐ後ろから無言でずんずんと迫ってくる。
恐怖にとらわれ、反射的に逃げ出そうとする体がジャラリと鳴る鉄の音と共に跳ねる。
痛みは日向を再び草の上へ叩きつけて、迫ってくる影の足を速めさせた。
「うっ?!」
ずいと伸ばされた大きな手から庇うように頭を抱いて横たわる。
縮こまった四肢は震えて、死の恐怖にひたすらに怯えるか弱いものだった。
まるで巣から落ちた雛鳥のよう。
大きな、その影はしかし、日向の意とは反し右足のトラバサミへ手をかけると力任せにそれをガシャンと押し開く。
強烈な圧迫感と痛みから唐突に解放されて何が起こったのかわからない脳味噌が空回りする。
なにが起こったのかもわからないままにギョロつく瞳で日向が見たのは、月明りの下で焦った顔をする、伊達工の生徒。
以前は7番で今は1番のユニフォームを着た大きな体をしたひとつ年上の男子、青根だった。
どこかから泣き声を聞きつけてやってきてくれたのだろう。
その行動から無口ではあっても助けてくれたのだとわかる。
「あ、あんた…」
伊達工の、と、言おうとしたが呂律が回らず舌がもつれる。
助かった。と思う気持ちが、大きすぎたショックにどうにもついてこられなかった。
破裂しそうにバクバク高鳴っていた心臓が恐怖から一転、安堵の思いで今度は強引に異常な脈拍を抑え込もうとする。
それは日向に過剰なストレスとなって襲いかかり、その意識を一路、遠くへ飛ばしてしまった。
カクンと糸が切れてしまったように。
突然ドサリと倒れた小柄な体に驚いた青根が慌てて小さな肩を掴んで小刻みに揺らす。
涙と唾液と鼻水に濡れた顔をせっせとその大きな手で拭いてやり、冷や汗に張り付く前髪をのけてやっても日向の明るい色の瞳は閉じたまま。
当分は、目を覚ましそうもなかった。
日向が起きていればもう一度ビックリする事になっていただろう。
ガサガサと藪を掻きわける足音がもうひとつ別に近づいてくる。
「イテテ…おい、どうしたんだよ急に。青根、そこか?」
腕を引っ掻く藪を実に邪魔くさそうに掻き分けて、どうにかこうにか青根を追ってきたのは以前は6番の、今は2番のユニフォームを着込んだ主将、二口だ。
青根と、それからその足元に転がる誰かを見つけて一瞬ギョッと足を止める。
血まみれの校舎を飛び出して、運よく、すぐに出会えたチームメイト。
それが、いきなり走り出して姿を消し、やっと見つけたと思えばその足元に気絶した傷だらけの他校生を横たえていりゃぁそりゃ驚くだろう。
「それ、どうした?拾ったのか?」
よもや、青根がそれをやったとは思えず、おそるおそる聞く二口の眼にもそれがやっと誰だかハッキリと認識出来た。
烏野の10番。
すばしっこいチビ助だ。
元気だけが取り柄みたいなソイツの足は、誰がどう見ても決して軽くは無い傷が穿たれていて、二口もその傍へと小走りに駆け寄った。
近くには狩猟用の罠が転がっている。
「……。」
誤ってコレを踏んだのかとすぐ納得し、太い枝を近くの木からバキリと1本拝借する。
自分たちが間違って踏んだら大変だと考えた二口がトラバサミの中央の突起へ、思い切りソレを突き立てればトラバサミがバツンッと枝を噛み折った。
閉じた状態ならトラバサミも罠の役割は果たさない。
「…こりゃ痛いな」
独り言を呟いて、倒れている日向へ向き直った。
この場で唯一口をきいているのは二口だけだ。
青根は元々無口な奴だし試合中はうるさい日向だって今はどうも口をきけるような状態じゃない。
放っておくと、まずいだろうか?
応急処置の仕方なんてものは知らない。
それでもせめてもと思い、デイバックを漁るなり飲料水として支給されたペットボトルから傷口にドバドバと水をかけた。
貴重な飲み水なのはわかっていたが背に腹は代えられない。
なにもしないよりはマシ、程度の気休めだが。
自分の学校鞄から取り出した、本当は部活で使うつもりだったタオルできつく傷口を縛ると意識の無い日向の眉が苦し気に寄った。
痛みは夢の中まで届いているようだ。
ぐったりと動かない日向を抱いて、ジッと青根が自分を見つめてくるのに気が付く。
まさか置いていったりやしないだろうと、目が口ほどに物を言っている。
「…ったく。どーすんだよ余計なもん拾っちまって」
助けてしまった手前、今更置いてなどいけない。
口調では責めるような事を言いながら、手当をしている自身の行動は知らないフリをし黙って青根が日向をヨイショと背負いあげるのを手伝った。
「元の場所へ捨ててきなさい」なんて言ってみたところで元の場所はそもそもここなのだし。
それに例え、捨てた所で青根は何度でもコイツを拾ってくるだろう。
そういう奴だ。
わかっている。
だから止めようがない今は止めるつもりもなかった。
「ちょっと待った」
少し離れた場所に人家を見つけ、ひとまずはそこへと歩き出した青根を引き留めて二口が足早に藪の中へ戻る。
そこには罠にかかった日向が思わず投げ出したデイバックと合宿用の荷物があった。
合宿用の荷物に用は無い。
デイバックの口を手早く開く。
「中の武器を確かめとく。…そんな顔すんなよ」
他人の荷物を漁る二口を視線だけで諌める青根にやれやれと二口が苦笑で答える。
そうは言ったって、コレは自分たちの身を守るための行動なのだ。
しないなんてわけにはいかない。
「忘れんな青根。今は“椅子取りゲーム”の真っ最中なんだ。…お前がどうしてもソイツを連れてくってんならしょうがねえよ。でも、ソイツが危険じゃないってわかるまでは俺は気を許すつもりは無い」
自分と、それから青根を守る為に。
乱暴な言い方の裏にある言葉を拾える程度の信頼関係は部活を通して築いてきた二人だ。
二口が日向の荷物を漁る事を青根は黙認し、背中の日向を揺すり上げる。
自分たちも持っている水やパンや懐中電灯、地図を押しのけて更にその奥、銀色のケースを二口が引っ張り出す。
側面の出っ張りを押し込むと簡単にパキリと軽い音をたて蓋が開いた。
中には注射器が数本きちんと、行儀よく静かに並んでいた。
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続
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